リストマーク 吾妻町立岩島第一小学校廃校(2002年09月)

写真1:吾妻町立岩島第一小学校正面


写真2:岩島第一小学校の裏側(国道側)

 川原湯温泉街の近く、国道145号(長野街道)を渋川方面に向って走っ ていたところ、JR郷原駅の手前で廃校を発見した。吾妻町立岩島第一小学校とい うこの学校は、まだ廃校になってから日も浅く、荒れ果てた感じは少ない。    平成11年頃までは使われていた模様である。地元の人に話しを聞くと、近くにあ る学校に統合されたため廃校になったとのこと。かつて校庭があった場所には、建 築会社のプレハブが建ち、今にも解体作業が開始されそうである。訪問時には校舎 は1棟しか残っておらず、内部に入ることもできなかった。健在だった頃は、この 棟以外にもいくつか校舎があったものと思われる。

 岩島第一小学校は国道沿いに建っているが、国道が校舎の裏側を通っている ため、国道からは小学校の正面を見ることができない。校舎は国道からは10メー トルと離れていない。きっと授業中も車の走行音がうるさかったであろう。かつて グランドだった場所には、建築会社のプレハブが建っていた。現在残っている棟の 隣にも、かつて校舎があったようで、トタンで塞がれた跡だけが残っている。校舎 は2階建て。中央部分の階段室のみ3階建てとなっている。

Google Maps上での位置は、下記の通り。
吾妻町立岩島第一小学校廃校


写真3:校舎中央部の階段室部分


写真4:校舎壁面のアップ


写真5:小学校入り口近くにある像


 校舎は木造モルタル作り。窓枠は木という古めかしさが懐かしい。外壁の色も、昔の小学校建築のそれである。小学校の入り口近くには、2人3脚をする子供の像が建っていた。「かしこく、たくましく」と書かれたこの像は、他の学校でも見かけたことがある。このあたりの小学校では、汎用的に置かれている像なのかもしれない。

写真6:正面入り口近くに設けられた郵便受け


写真7:校内展示されていた石臼


写真8:国道側から校舎左側の入り口内部を見たところ


写真9:写真8のアングルを反対側から見たショット


 正面入り口近くには、郵便受けが残っていた。「発送」「封書等」「新聞受」の3つで構成されている。置き去りにされた郵便物が何とも寂しい。また校内には「石臼」が展示されていた。説明板によると、この石臼は天明3年7月8日の浅間山噴火の際に埋没し、昭和30年5月に、地下1.5mから出土したものだそうである。

 国道側から、校舎左側の入り口内部をのぞいてみた。ガラス越しに見た廊下の右側奥には、放送室が設けられている。木張の廊下に引かれた白いテープの中央線が懐かしい。今度は反対側から校内を見てみる。向って左手前に放送室の看板が見える。校内は埃も堆積しておらず、保存状態は良い。

写真10:校舎の中央入り口部分を校庭側から見る


写真11:校舎をグラウンド側から見る


写真12:外側から窓越しに撮影した廊下と教室の模様


写真13:グラウンド側の出入り口付近に残されていた鳥小屋


写真14:グラウンド出入り口付近にあった水飲み場


 校舎の中央入り口内部を、校庭側からのぞいてみた。2階に上がる階段の横に、大きな下駄箱が設けられている。壁に吊るされた箒や、床に置かれた金盥や雑巾など、生活の跡も生々しい。廃校になってから、さほど月日が経過していないようである。グラウンド側から見た校舎は、窓ガラスの破損も見受けられず、保存状態は極めて良い。窓ガラスにはだるまストーブ用の煙突穴が設けられている。出入り口の横には、水飲み場があった。  廊下の窓ガラス越しに、教室の中を覗いてみる。なぜかスタッドレスダイヤが山のように置かれていた。「文化財」と書かれた紙片が窓ガラスに貼られていたが、これは意味不明。教室の中は廃材置き場になっているようで、かなり乱雑である。

 グラウンド側の出入り口付近には、鳥小屋が残っていた。八角柱のしゃれた形である。この鳥小屋のすぐ横には、建設会社のプレハブが隣接する。校舎からは3mくらいしか離れていない。グラウンド出入り口付近にあった水飲み場は規模が小さいが、これはこの学校の生徒数が比較的少人数だったからであろう。

 この地区は、小学校の統廃合がかなり盛んに行われているようである。先日テレビのドキュメンタリーを見ていたら、長野原第一小学校が新校舎に移転し、明治時代から使用されてきた木造校舎が取り壊されるという番組をやっていた。こちらの方も、撤去が開始される前に是非訪問しておきたいものだと思っている。





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