焼失前日の方廣寺大佛。
【昭和48年(1973年)3月27日撮影】
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■大佛殿方廣寺 (2014/08/15)

 終戦の日特集。

 今回は、かつて京都にあった方廣寺の大佛についてである。

 現在は忘却の彼方に葬られたままになっているが、京都には大変ユニークな大佛が有った。大佛殿方廣寺の大佛である。この大佛は昭和48年(1973年)03月27日の深夜に、原因不明の出火で全焼した。

 人生において、奇妙な経験をするということは、少なからず有る。筆者にとって、この方廣寺大佛の焼失事件がそうであった。当時中学生だった筆者は、春休み中に京都を観光した際、大佛殿方廣寺に立ち寄った。1973年03月27日、即ち焼失当日の午後である。当日は午前中から京都の寺社仏閣を参拝していた。午後も遅くなり、そろそろ見学を切り上げようと思っていた際に、まだ少し時間があるので、たまたま方廣寺に立ち寄ることにしたのだ。

 方廣寺には、以前にも一度立ち寄ったお気に入りの場所だった。何と言っても本尊盧舎那仏坐像のユニークさが際立っていた。江戸時代の天保年間に再建されたこの大佛は、肩より上の頭部しか無いものだったが、その大きさは実に14m23cmもあった。繰り返し書いておくが、この大佛は頭部しか無いのである。その頭部が14m以上もの大きさなのだ。もし全身坐像であったら、いったい何メートルの高さになっていたのであろうか?このような頭部のみの大佛というものは、過去に類例が無い。

 最初にこの大佛の存在を知ったのは、確か京都の観光案内書に掲載されていた小さな写真だったと思う。写真ではその大きさは全くわからなかったが、大佛の表情に魅せられて見学に行ったのだ。初めて見た時の驚きたるや、大変なものだった。あいにく、初回訪問時にはカメラを持参しなかったので写真を撮影できなかった。二度目の訪問は、その巨大な頭部を写真に納めることが目的だった。

 とはいっても、当時筆者が使用していたカメラは、本サイト「我楽多」に掲載した「RICOHFLEX Model VB」という、6×6cmフィルムを使用するブローニー版カメラである。f=80mmと望遠寄りなので、引きが取れない狭い大佛殿内では取り回しに苦労した。さらに、フィルムの感度はASA100、今風に言えばISO100であり、撮影時間も夕方だったので光量も不足気味。三脚の用意もしていなかったので、手持ちで撮影するしか無かった。

 それでも、当時貴重なフィルムを用い、手持ちで1〜1.5秒程度の長時間露出を行い、何とか大佛様の御尊顔を撮影することができた。とりあえず、その日は目的を達成し、宿に戻る。

 翌日の新聞を見て驚いた。まさに昨日訪れた大佛殿方廣時が、原因不明の出火により焼失したことが掲載されていたからだ。まさか、あの方廣寺だとは最初信じられなかった。さっそく現地に赴き、自身の目で確かめてみることにした。

 焼失前日の夕方近く、たまたま時間が余ったので立ち寄った大佛が、その日の深夜に不審火で全焼する。考えてみれば、不思議な経験である。もし前日、方廣寺訪問を翌日に延ばしていたら、ここに掲載した写真は撮影できなかった。虫の知らせというのだろうか、それとも単なる偶然なのだろうか?実に奇妙な経験なのであった。


方廣寺の位置。




大佛殿方廣寺写真
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撮影:昭和48年(1973年)03月27日〜28日




 方廣寺(方広寺)は、天正14年(1586年)に豊臣秀吉により発願され、最初の大佛殿は文禄4年(1595年)に竣工している。ところが、この大佛殿はその後、地震・火災・落雷などの災禍を次々と受け、残っていたのは江戸時代天保年間に再建された第四世代であった。その変遷は、Wikioediaの「京の大仏」の項目に記載されている。

・初代:1595年 - 1596年(約1年間)
・( - ):完成前に事故で瓦解
・2代目:1612年 - 1662年(約50年間)
・3代目:1662年? - 1798年(約136年間 ?)
・4代目:1843年? - 1973年(約130年間 ?)

 また方広寺には重要文化財である「国家安康の鐘」が有ることでも有名である。この鐘は昭和48年の焼失を免れている。

 方広寺で検索をかけても、大佛殿の外観は沢山出てくるのだが、焼失前の大佛の御尊顔は出て来ない。あれだけ存在感があるユニークな大佛だっただけに、少し意外な感じを受ける。本当に忘れ去られてしまったのだろうか・・・

 なお、当時から筆者は日記を付けており、日記帳第13巻中に焼失当日に訪問した際の記録が残っている。その際、大佛殿の内部配置もメモしておいた。中学生の落書き故、どの程度正確であるかは疑問だが、一応参考までに掲載しておく。

 そうそう、もう一つ。このお寺は大佛だけでは無く本殿左右に配置された仁王像もユニークだった。こちらも巨大な頭部しか無いのである。頭部だけで高さは1.5mを越えていたように記憶している。全身像であれば、きっと巨大な立像になっていたであろう。仁王像といい本尊大佛像といい、話題満載のお寺であった。それだけに、昭和48年の焼失は悔やまれてならない・・・

 合掌!

 (-人-)


方廣寺大佛殿の内部配置図。
当時の日記の記録をもとに復元したもの。
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大佛殿方廣寺拝観の栞。
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大佛殿方廣寺のご朱印。
昭和47年08月15日に参観した際のもの。
左隣りのご朱印は六波羅蜜寺。なんか、こうして比べると、何だかなぁ・・・と思ってしまう。
因みに、筆者は中学生の頃から寺社仏閣の朱印を収集するのを趣味としていた。なんともまあ、抹香臭いハナシである。これも、今となっては貴重なコレクションになっている。

大佛殿方廣寺の絵葉書。
昭和47年08月16日に社務所で購入したもの。
絵葉書を購入した時のことを書いておこう。社務所受付には、絵葉書を販売している等の表示は一切無かった。しかし、京都では大抵のお寺で絵葉書を販売しているので、ダメモトで聞いてみたところ、確か有ると言う。その後、社務所の中を探しまくり、ようやく奧の古い引き出しの中から出してきたのがこの絵葉書集だ。商売っ気が全く無かったのである。

大佛殿方廣寺の焼失を伝える記事。
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大佛殿方廣寺の焼失を伝える記事。
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大佛殿方廣寺の焼失を伝える記事。
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大佛殿方廣寺の焼失を伝える記事。
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大佛殿方廣寺の焼失を伝える記事。
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