1998年7月号臨時増刊「さらば愛しのDOS/V」の執筆記事。DOS/Vの歴史を語る上で、おそらくは最も重要な資料と言えるこの臨時増刊号については、文末の補記に詳しい。
6月号に小型マシンの変遷について特集記事を掲載したばかりの筆者だが、引き続いて謎パ~機の日本語化という切り口で本記事を執筆することとなった。Windowsの台頭によりDOSの文化が忘れ去られようとしている時期に、DOS/Vムーブメントの一翼を担う謎パ~機の日本語化というパワーユーザーたちのマニアックかつ華麗な技について資料化し、後世に伝えることには大きな意義があると考えたのである。
本稿では、主な謎パ~20機種の概要を紹介した後、MS-DOSベースのマシンを対象としたいわゆるDOS/Cによる日本語化の方法と、IBM PC互換アーキテクチャーを採用していないマシンにおける専用ソフトウェアによる日本語環境の構築方法について解説した。後者については、Psionなどの非DOSベースマシンの他に、ATARI PortfolioやHP95LXのようにDOSアーキテクチャーではあるが液晶画面がCGA互換ではないマシンが含まれる。また取り上げた謎パ~機のスペック一覧も掲載した。
(補記)
本臨時増刊号発行の経緯については、Schwarzschild Cafeの記事で述べている。以下にその一部を再掲する。
DOS/Vの開発は艱難辛苦の連続だったと言う。残念ながら、現在その詳細を記した書籍は、とうの昔に絶版となってしまっており、入手することは困難だ。DOS/V開発の物語を最も詳細に、かつIBMの社内事情まで含めた形で総括した書籍は、電波実験社が1998年7月臨時増刊号として発行した「PCWAVE さらば愛しのDOS/V」のみであろう。電波実験社(後のラッセル社出版)は1999年04月に倒産し、PCWAVE自体も無くなった。その9ケ月前に特急で刊行された本書は、今となっては開発秘話を知る上で、事実上ほぼ唯一の書籍となってしまった。
当時、筆者もこの臨時増刊号にコラムを寄稿した。さらに、編集部からの要望に応え、自身がコレクションしていた古いPCパーツの写真撮影にも協力した。この臨時増刊号の発行は、ほぼ当時の編集長の独断で決定されたようだった。そのため、ただでさえ月刊紙の編集で忙しい社員は、まさにてんてこまいの状態になっていたのを覚えている。
なぜ、これほど無理なスケジュールで臨時増刊号を出版したのか?今考えると、その理由は良くわかる。1998年の当時でも、DOS/Vがどのようにして生まれてきたのか、真相を知るヒトはほとんど居なかったのだ。わずかに開発関係者と、初期DOS/Vを担いだ人柱の方々しか、舞台裏を知らなかった。そして、1998年当時はまだ、そういった開発関係者が、現役で活躍していた。「DOS/V開発関連のハナシをまとめるには、今しかない!」おそらく編集長はそう思ったのだろう。結果として、この臨時増刊号は、DOS/Vについて、極めてコアな部分までまとめられた、大変貴重な雑誌となってしまった。
手元にある「さらば愛しのDOS/V」を読むと、IBM PCマシンにソフトウエアで日本語を表示するプロジェクトは、何回も挫折してるのが判る。そのため社内では、「潜水艦プロジェクト」と呼ばれていたそうだ。企画を出しては脚下され、再度チャンスが来るまで潜行している様が、そう呼ばれたのである。
DOS/Vの始祖鳥とも呼べるものは、1987年10月には既にIBM社内で実現できていた。このプロトタイプは、さしずめ「DOS 3.3/V」と言っても良いものだった。PC DOS Ver3.3は英語版しか存在しないが、IBMの社内では、既に16ドットの日本語フォントを表示したDOS 3.3/Vがあったのである。「さらば愛しのDOS/V」には、その時の貴重な画面写真が掲載されている。結局このバージョンは、発売を見送られた。当時のCPUでは、動作のパフォーマンスが低かったというのが、その理由の一つだ。その後、DOS/Vのプロジェクトは2度の挫折の経て、3度目にしてようやく発売に漕ぎつけることができた。これが、1990年12月に発売された「日本語DOS Ver.J4.05/V」だった。