リストマーク 帝國産金興業大仁鉱山跡 (1999年1月)

写真0:帝國産金興業大仁鉱山外観

伊豆大仁にあった代表的な廃墟、大仁鉱山跡である。この廃墟は、残念ながら1999年9月に取り壊されてしまった。ここに掲載した写真は、取り壊される直前の、1999年1月に取材した時のものである。この鉱山遺跡は、国道136号からもその異様な外観を見ることができ、前を通るたびに気になっていた物件であった。取り壊される前は、山腹に沿って階段状の建造物が建っており、その頂上部分には「大仁金山」と書かれた大きな看板が架かっていた。

住所は静岡県田方郡修善寺町瓜生野付近。


写真1:帝國産金興業大仁鉱山内部

 大仁金山は、天正年間(1573〜1592年)に発見されたと伝えられている。この金山は、土肥、縄地、湯ヶ島とならぶ伊豆金山として知られていた。大仁金山の全盛期は慶長年間(1596〜1615年)であるが、その後は休山となってしまう。大正時代から昭和初期まで、鉱業権が転々とし、1935年に帝国産金興業が買収した。その後、日産処理150トンの浮遊選鉱工場が建設され、最盛期には毎月20kgの純金を生産するまでになる。しかし、狩野川台風による坑内出水が増大し、排水のための費用、人件費の高騰、坑内設備の老朽化、金量枯渇のために、1973年に閉山した。(メディアファクトリー刊、廃墟遊戯より)

 大仁鉱山跡は、山の斜面に建てられており、その構造はまるで階段教室のようになっていた。山のふもとから頂上付近まで、約6層の構造となっており、内部は木製の階段で上ることができた。最下層部分の正面には、入り口が設けられてあったようだが、閉山後はブロックで厳重に封印されている。そのため建物へは向かって左側の隙間から入り込まなくてはならなかった。鉱山の正面は、一面ガラス張りの窓となっていたが、全ての窓ガラスは割れており、異様な外観を呈していた。

 鉱山内部は無数の柱が林立し、階段状の建造物の最上階までを見渡すことができる特異な構造となっていた。放置されてからかなりの年数が経過しているため、屋根には穴があき、木製階段も朽ち果てており危険な状況であった。各階層には、巨大なモーターや用途不明の機械が放置されており、まるでパソコンゲーム「MYST」の雰囲気そのものだ。大仁鉱山跡の近辺には、おそらく鉱山に電力を供給していたと思われる変電所の跡が残されていた。また、用途不明の巨大なコンクリート製構造物も見受けられた。

 現在、この鉱山跡の遺跡は見ることができない。保存の状況からして、取り壊されて然るべき状態であったのは事実だが、これだけの規模と迫力がある廃墟が無くなってしまったことは、残念である。別項でも述べるが、現在はコンクリート製の土台のみがむき出しの状態で放置されており、操業当時の面影は全く無い。



写真2.国道136号線から遠望した大仁鉱山廃墟。屋根の数から判断すると、6層の構造になっていたようである。上層部は朽ち果てて、大きな穴が開いている。ここまではとても危険で登って行くことはできなかった。


写真3.大仁鉱山の正面から廃墟を見上げたところ。窓という窓にはガラスが無く、無数のうつろな目に見つめられているような不気味な雰囲気が漂っていた。木製の窓枠は、なぜかほとんどが残っていた。操業当時は、内部の様子が良く見えたものと思われる。

写真4.建物を左側から見たところ。未舗装の道路の正面向こう側には、使われなくなった選鉱場の跡と思しき物がある。建物内部には、左側壁面に開けられた入り口から進入することになる。


写真5.正面の窓枠にからみつくツタ。窓枠は、3×4のマトリクス状になったものがひとかたまりとなっており、それが縦5個、横20個取り付けられている。いわば、建物の正面全体がガラス張りになっているような構造なので、採光はかなり良かったと思われる。屋根の上には、特徴的な採光窓が3つ設けられている。


写真6.建物を右端から見たところ。中央の下に見えるコンクリート製ブロックは、かつての正面入り口であったと思われる部分。現在は厳重に封印されている。これを見てもわかるように、建物正面は前面ガラス張りという特異な設計だ。一部窓枠が突出し、今にも壊れ落ちそうな状態であることがわかる。


写真7.かつての正面入り口。コンクリートブロックで厳重に封印されていた。


写真8.大仁鉱山の正面に位置する、かつての変電所跡。鉱山に電力を供給していた基地である。変電所といっても、外観はこのように瀟洒な洋風建築で、趣がある。画面左奥に、鉱山の建物がちょっとだけ見えている。


写真9.大仁鉱山変電所の、写真8の反対側から撮影したショット。変電所建物の裏側に当たる。手前の地面には、コンクリートのブロックが数個配置されてあったが、何に使っていたのかは不明。


写真10.変電所裏口の扉の上に残る照明の跡。変電所の保存状態は、鉱山の建物と比較すると良い。右側の窓の形が特徴的。


写真11.大仁鉱山倉庫跡。変電所の隣に建っていたもので、おそらく倉庫として使用されていたものと思われる。建物自体は、何の変哲もない木造で、白い塗装が施されていた。中には廃棄されたゴミが散乱していた。


写真12.変電所の側面。壁面には数多くの碍子が取り付けられており、かつてはここから多くの送電線が精錬所の中へ引き込まれていたものと思われる。変電所跡の左後方には、倉庫が見える。この辺りには、破損した碍子が数多く落ちていた。


写真13.鉱山建物右側奥に残っている、選鉱場の跡。巨大な漏斗のような構造になっている。上部には鉄骨で組まれたトラスが渡されていた。円形プールのような構造になっていたようである。この構造物の奥には小さな管理小屋があった。ここは当時まだ稼動しており、「タンタンタン」というポンプの単調な音が響いていた。


写真14.鉱山工場の一番下の部分(第一層)に入ったところ。右手がガラス張りの正面になっている。奥に見える階段は、第二層部分に上るためのもの。二層部分への階段は、一層部分の両端に設けられている。一層部分には、特に機械類は放置されておらず、荒れ放題になっている。建物左手に開けられた侵入口から入って、まず飛び込んでくる光景が、これである。


写真15.工場内部の第二層に登ったところ。第二層には、大型の機械が3台放置されている。この写真ではそのうちのポンプとウインチが見える。左側のコンクリート壁面には、さらに上層部につながっている穴が見える。正面の階段は、第三層へ登るためのもの。画面中央左に積まれているものは畳。昔畳が敷かれていたということであろうか?この階層は、土台がコンクリート製で平らであったため、安心して歩くことができた。


写真16.第三層部分から、第二層のウインチと第一層部分を見下ろしたところ。ここまで登ると、通常のビル4階分くらいの高さとなる。


写真17.第三層から上層部を望んで撮影したもの。とにかく林立する柱の数が半端では無い。各柱には電球による照明が取り付けられている。蛍光灯の類は設置されていなかったようだ。この第三層は重機が備え付けられており、またコンクリートの床面にもところどころ穴が開いていて、歩行には注意が必要であった。


写真18.第三層から上層へ向かう階段を撮影したもの。正面階段のすぐ上のレベルが、第三層のコンクリート土台である。写真で見る限り、奥に向ってさらに7層くらい上がれるような構造になっている。取材当時、この木製の階段はかなり危ない状態であり、第三層以上のレベルには行かなかった。左側に見える青い壁は、第三層にある独立した部屋である。ここには広い部屋の中に、用途不明の機械が、ポツンと一個置かれていた。


写真19.第二層から第三層へ登る階段。木造で所々腐っているため、昇降には注意が必要だった。階段の足元には、おびただしい数のゴミが放置されている。ガラスの破片も多く、極めて危険な状況だった。この写真を見てもわかるように、1層分の高さは通常の建物の1階分よりもかなり高い。


写真20.第二層から第一層に降りる階段の途中より、第二層部分を見上げたところ。薄暗くて良く写っていないが、奥の奥まで木製の柱が林立しており、壮観である。


写真21.第三層には、大型の電動モーターが数基放置されていた。モーターの後方には、非常に大きい円筒形の容器が見える。手前の床は第二層に通じる穴になっていた。このように、第三層の構造は極めて複雑であった。おそらく工場の中核と思われる。


写真22.この装置は第二層に放置されていたもので、異様な外観をしているが用途は全く不明。何に使われていたのか、見当もつかない。放熱板のようなものが多数ついており、何かの冷却装置かもしれない。


写真23.第三層には、精錬所内部と分離された大きな部屋がある。この写真はその部屋の中央に置かれていたもの。この部屋は非常に広く、天井は2階分吹き抜けになっていた。この装置の用途も不明である。


写真24.第二層に放置されていた、ウインチとポンプのような機械。その周りには廃材が積み重なって放置されていた。


写真25.第三層から第四層へ登る木造階段。階段の途中に、訪問者が残していったと見られるペットボトルの空き容器が置かれてあった。第四層への階段は朽ち果てており危険であったため、今回は登らなかった。




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